中坊進二が京都大火を紹介します


歴史上、京都は非常に大火が多かった土地です。
理由は2つあり、1つはとても当たり前なこととして、
人が多かったことです。
逆に、住人が多くなければ、
歴史に残る程の大火は発生しませんでした。
そして、もう1つは、京都の住居の建て方にありました。
これは江戸でも同じことが言えるのですが、
住居がとても密集して建てられていたからです。
今回、中坊進二は京都の大火について紹介したいと思います。

応仁の乱の時は京都の西半分は全焼し、
完全に焼野原(もしくは沼地)になりましたが、
俗に言う「京都の三大大火」はそれを上回る被害と言えます。
赤壁の戦いの連環の計のように、
京都のすべての建物が繋がっているような状態でしたので、
たった一つのボヤ(放火説が有力)で
京都の8割が焼け落ちたとも言われています。
当時は家と家を区切る道路も狭く、
風が吹いただけで簡単に飛び火するほどの距離だったそうです。
今は関係ありませんが、
中坊進二が住居としている所もまっさらに焼野原になったそうです。

未遂に終わった放火事件で有名なものでしたら、
中坊進二は池田屋事件を挙げます。
その時の攘夷士師の計画では、京都に火を放ち、
その隙に天子様を誘拐する計画だったと言われています
(仮説の域を出ない)。
と言いつつ、その10日後に結局、
京都の三大大火のひとつ「どんどん焼け」が起きていますので、
未遂とは言い切れないかもしれません。
(放火理由は不明。逃亡のかく乱の為とも言われている)

今でこそ消防システムが整っていますので、
天変地異クラスでない限り、大火が起こることはありません。
しかし、街並は今も木造建築が多く、
火が付きやすい環境は変わりません。
木材には不燃処理がされていますが、
乾燥した時期は特にお気を付けてください。
中坊進二も火の元には十分注意しています。